道草ばかりの人生  長山 伸作
 プロローグ
 生 誕 期
 思 春 期
 東芝に就職
 東芝山岳会
 夢のチロル
 ザルツブルグ−1
 ザルツブルグ−2
 チロル・シュルンス−1
 チロル・シュルンス−2
 男と女 出会いと別れと
 創 業 期
 結婚と家族
 浮き 沈み
 最愛の弟に
 中小企業考
 事業継承考
 スローライフ

写真/マッターホルンをバックに
モスクワからヨーロピアンエキスプレスでウイーンへ。ヒッチハイクを重ねてたどり着いたのがツェルマット。憧れのマッターホルンをバックに記念撮影。25才の時だった。


 思 春 期


遊びの社交場はお寺の境内
お寺の裏は、お墓もあったが森もあった。夏休みの夜は仏壇から内緒でローソクを持ち出し、家に帰ることも忘れて「肝試し」に興じた。大木に縄梯子を作って吊るし、工場から持ち出した板材を組んで樹上にターザン小屋を完成させた時の感動はスゴイものだった。本堂の縁の下で、年上の子供たちの「お医者さんごっこ」を見てしまった。それから徐々に色づき始めた。

性の目覚めか
小学校も上級生になると、いろいろ目移りしてくるようになった。舎人町は芸者街で、人力車に乗った首筋まで真っ白なお姉さんが綺麗だと思った。学校でも、担任の女先生より、他のクラスの女先生のほうが美しいと、比較するようになった。隣の花屋さんは生け花の先生でもあり、通ってくる女性をポカ〜ンと見ることもあった。姉に言われた。
「ポカンと口を開けないこと。馬鹿に思われる。」

クラスで評判の女性、Aちゃんは確かに美人だった。絵画の時間に思い浮かべながらついつい彼女を描いてしまった。自慢ではないが、絵画は得意中の得意。学校代表で名古屋市の写生大会に出かけることもあった。当然、私の絵は掲示板に張り出されていた。終業後掃除の時に「長山、この絵はAちゃんを描いたのだろう」と、みんなに冷やかされた。当たっているからバツが悪い。苦し紛れにとった私の行動は、Aちゃんの顔に濡れ雑巾を投げつけていた。

倒産の惨めさが理解できたのは、当時では極めて少額である中学の教材費をオフクロに頼んだとき。「ちょっと待って。明日まで」。プライドの高い彼女が、親戚中を駆け回って頭を下げる辛い顔が目に浮かんだ。


私は名古屋のど真ん中にある市立富士中学校に通っていた。出来の悪い自分ではなかったが、特に好きだった絵画の材料が買えず、大袈裟に言えば自暴自棄の時代が存在した。見るからに番長級の悪と付き合って、校長室に呼び出されることもあった。イキがって机の上を走り回り、滑って、尾てい骨を強打した。一年近くは椅子に腰掛けることが大儀だった。廊下で巨漢相手にレスリングをしていたら、ひょいと頭越しにデングリ返された。肩から墜落、鎖骨がボキリ。放課後に、仲間をムキになって追い賭けていたら、ドブの羽目板が跳ね返って膝の皿に角が当たりヒビが入った。けたたましい痛さを我慢して自宅に戻ったときには、膨れ上がって膝が曲げられなかった。
休学の退屈を読書に求めた時期でもある。近所の貸本屋まで毎日出かけて、毎日読みふける。吉川英治は宮本武蔵から三国志まで、ありとあらゆる貸本屋の本をあさり、揚げ句は外国文学に。トルストイ、ヘッセ、ゲーテに至って、死を容認する時期もあった。当然の事ながら、エッチな本もおやつ代わりに借りた。兄弟に見つかるとバツが悪いので、夜中に布団に潜り込んで読んだものである。このセイか、極端に視力が落ちていった。

気丈なオフクロの涙を、見たことがなかった。私の枕元で、目を潤ませて悔しそうに吐き出した。
「おまえは、こんな子ではなかったのに」。
女を泣かせては男の恥。


オフクロの勧めを受けてYMCAに通い始めた。苦手な英語と数学を学びながら、バスケで汗を流した。夏にはYMCAのキャンプ施設がある根ノ上高原でいろんな体験もできた。この頃の頭脳組織は回転が速く、一度読み通せば、ほぼメモリにフィックスできた。どん尻から数えた方が早かった成績が、千人のマンモス校で百番内に顔を出すように回復。やればできるジャン。

3年にもなると進学の話がでてくるが、家庭の事情を考えると我が儘は言えず、自分なりに高校を卒業と同時に社会に出ることを考えていた。母親は普通高校から大学へ行くことを勧めたが、奨学金を使ってまで大学へ行く必要もないと、県立の東山工業高校を受験した。滑り止めに私学も受けたが、行く気がなかったので、入学受付金で自転車を買ってしまった。5倍の競争率に、不安がなかったかと言えばウソになるが、無事に東山へ上位入学ができた。

高校時代の思い出は、伊勢湾台風が強烈に残っている。自宅の屋根瓦は見事に吹き飛ばされ、窓ガラスの割れた破片が畳を埋め尽くし、土足のまんまで一晩中、風雨と戦った。自宅の後片付けも大変だったが、学校も大変。生徒会議員の役も受けていたため、満場一致で被災地救援。私たちは毎日ショベルをもってトラックに乗り、港の土嚢積み作業に明け暮れた。学校は救援物資の中継基地となり、約一ヶ月近く、学業から離れて、わが故郷名古屋の復興に汗を流した。


工業高校では、浮いた話が全くない。演劇のサークルに入っていた姉が、金城学院の双子の姉妹を時々自宅に招いていた。可愛い子だったが、金城と双子は、当時の私には荷が重かった。臭いをかぎつけた学友が、私をさしおいてモーションをかけたが、徒労に終わった。内心胸をなで下ろしたが・・・。

当時では珍しかった電子工学を専攻したためか、求人難のためだったか、就職には困ることはなかった。大手メーカーは人事課の担当者を学校まで派遣して面接をしていた。私は名古屋を離れてみたかったこととコンピュータに興味があったので、東芝の面接を受け、一週間も待たずに先生から就職内諾の連絡を受けた。

右上の写真は高校時代。学友が弾くラテンギターに魅せられて、質屋で1,500円もの高価なギターを手に入れた。青春の一時期に喜怒哀楽を共に過ごせた懐かしい写真である。




1960年8月
初めて日本アルプスに登る。

山好きの先生の発案で、上高地へ行くことになった。
私がこの後、山男になるきっかけである。
釜トンネルを抜けると、眼前に広がる大正池と穂高連峰。まさしく別世界だった。
日本にも、こんなに美しい風景があったのだと。
昔の人は徳本峠を越えなければ上高地は見られなかった。
さぞかし桃源郷の気分に浸ったことだろう。
現在では1〜2本しか存在しない大正池の朽ちたカラマツだが、
当時は湖面に乱立して、それは見事な景観だった。
河童橋から梓川沿いに徳沢まで入って、それぞれのテントを張り、飯盒炊さん、キャンプファイア。
翌日は槍ヶ岳と北アルプスを雲上から眺めるために蝶ヶ岳に登った。
上の写真がその時のものである。
今の高校生と比較すると純真だよね。
一人だけ、学帽で登山している変わり者もいるが。



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