道草ばかりの人生  長山 伸作
 プロローグ
 生 誕 期
 思 春 期
 東芝に就職
 東芝山岳会
 夢のチロル
 ザルツブルグ−1
 ザルツブルグ−2
 チロル・シュルンス−1
 チロル・シュルンス−2
 男と女 出会いと別れと
 創 業 期
 結婚と家族
 浮き 沈み
 最愛の弟に
 中小企業考
 事業継承考
 スローライフ

写真/ドライテュルメ登頂後
地元の登山家とドライテュルメに登った。最後の壁は、彼のザイルに助けられたが下山のグレッチャースキーもスリル満点、豪快だった。


 チロル・シュルンス時代−2 1970

オフの春秋は五ヶ月の長期休暇

観光客の少ない春と秋は長期休暇になる。春は2ヶ月、秋は三ヶ月。初めての春期休暇はザルツブルクに戻ってメリッタ、フリビー、エリカたちと過ごした。ミッキーは、冬をアールベルクのレヒスキー場で、ゲレンデ整備の仕事に就いていたが、春に戻って再び中国料理店で働いていた。ベティはウィーンに行ったきりだという。孤独な寂しい環境だから、いつも誰かが側にいないと不安になるのだろう。

オーナーに従業員宿舎の利用を頼み、代償として僕のウエイターアルバイトで了解を得た。アルバイト料は、割り当てられたテーブル売上の10%とチップ全額である。上顧客の筆頭はイタリア人。フランスの高級シャンパンをすすめれば、喜んでくれ、おまけに100ドルものチップを切ってくれることもある。単に見栄っ張りが多かったのかも知れないが、さすがにドイツ人は現実的で、メニューの価格を見て直ぐに立ち上がり、「高すぎる」といって出て行くこともあった。観光立国では、ウエイターはインテリジェントな職種である。最低ドイツ語、英語、フランス語の三カ国語を話せないと、この職業には就けない。さすがにフランス語は苦手で、ワインの産地と名前だけは記憶した。ワインの見分け方や、エスプレッソ、ウインナーコーヒー、アイリッシュコーヒーのノウハウを学んだ。




写真は、ドイツ・ケルンで開かれた写真機材見本市に出かけたときのもの。ボスの友人のベンツで、ボス、ヘアマンと僕が便乗してアウトバーンを飛ばし、ライン川の畔にある知人を訪ねた。彼の別荘には地下室にバーが設備されていて、珍しいワインで歓待してくれた。川に係留されているボートに乗ってホンモノのライン下り。畔に点在するワインケラー(酒蔵)を、渡り船で訪ねては試飲しながら買い回り、水上スキーまで楽しんだ。彼らが経営する会社は大きくはない。日本でいえば、小企業である。にもかかわらず、生活水準は随分差があり、ゆとりがある。日本人のような消費癖はなく、一見質素だが、住まいとオフタイムの生活習慣はカルチャーショックを受けるほど格段上だ。

優雅な休暇を真似て、一人、北イタリアのケアンテンに逗留したことがある。湖の畔のホテルで一週間、毎日インストラクターとヨット三昧。風の強い日はスリルがあったが、ないでいる日は湖上で酒盛り。ヨーロッパスタイルの滞在型休暇は、その土地の風俗や民族性に触れ合えるので、僕にとってはいい体験になっている。



ゴルムから眺めるドライテュルメ。
この三つの尖峰を制覇した日は遠い。


ジルブレッタ山脈を登る

シュルンスのあるモンターフォンの谷間は東西に長く深い。北はホーホヨッホなどの山並みがアールベルクに続く。南側のアルプスはジルブレッタと呼ばれて、イタリアと国境を接している。この地のシンボル的な存在は、槍ヶ岳のようなピラミダルなツィンバと呼ばれる山。

店で話題になったので、「登りたい」意思表明をしたら、ヘアマンが案内しようとのこと。彼は、僕が山屋であることを知らなかった。肝試しの積もりだったのだろう。登山口で、ザイルをたすき掛けに現れた。高度を上げるに従い、ルートは岩場と化し、足元は削ぎ落ちている。先行をためらうヘアマンを見て交代し、ザイル確保を頼んで逆層のテラスからチムニーをよじ登り、彼の登りを待った。彼は案外の高所恐怖症だった。そんな思いをしてまで、案内役を買ってくれた同僚に感謝した。

もうひとつの象徴的な針峰がある。ドライテュルメ(三つの尖塔)と呼ばれ、実にカッコいい勇姿である。喫茶店で知り合った山のガイド、ヴァルターに相談したら、「連れて行ってやろう」とのこと。ガイド料不要で、本場の岩登りが経験できた。チロル滞在で最も価値のあるアルプス登山だった。
チロルアルプス・ツィンバ記録
チロルアルプス・ドライテュルメ記録




ボスは僕の誕生日を前に、ビッグプレゼントをしてくれた。僕専用のバイクを買ってくれた。これでジルブレッタの林道を飛ばすこともできる。スイスまで遠出することもあった。仕事の行動範囲も、隣町のチャグンスまで広がった。

冬のシュルンス、2シーズン目を前にミッキーを呼んでスキー学校の校長に紹介した。話はトントン拍子で進み、彼はスキー学校の先生として、日本人第2号の住民になることができた。この冬を前に、僕は店に近いブティックの三階に引っ越した。一階は店舗、二階は店主家族の住まい、三階が貸部屋になっていた。バスはないがシャワー付き。こちらでは当たり前だが、風呂好きの日本人にはちょっと不満。向かえにサウナがあるので、まあ良しとするが、欧米人の体臭のきつさは、熱い風呂に入らない習慣も原因だろう。仕事で夜遅くなるのはいつものことだが、朝の目覚めはいつも早い。早朝の川沿いを歩いてパン屋に行き、センメルを仕入れるのが日課だった。焼きたてのセンメルに、バターとジャムをのせてパクつく。熱いコーヒーをゆっくり飲んでから、仕事が始まる。

ある快晴のゲレンデで、ミッキーが生徒を指導しながら滑っていた。僕は記念写真を撮り、みんなの視線が集中していることを感じながら、コブに突入した。いつもよりスピードが出ていた。コブに跳ねられ、バランスを崩して、タニでエッジをとられ、脚が大きくねじれた。気味の悪い音がして、気が遠のくのを感じた。吐き気がした。仰向けのまま。


骨折入院一ヶ月

ミッキーが近寄って、あらぬ方向にある爪先に全てを察知、直ぐに連絡に走った。この朝は冷え込んだので、板が外れないよう、いつもよりヴァインディングを強く締めつけたことを思い出す。随分時間が経った頃、サイレンの音と共に雪上車が現れた。手際よく脚を固定し、担架に載せられ、雪上車の横に固定されて、山を下りる。実に長く感じられる。トイレに行きたいがどうにもならない。下腹部が痺れてくる。まだまだ麓は遠く、キャタピラの振動に押され、我慢もできず、ついに漏らした。というよりは一気に放出。誠に気分がいい。小学生時代に、夢の中で気持ちよくオシッコをした寝小便以来の出来事。

収容先は修道院の入院病棟。敬虔な修道女の、けなげな世話を受けることになった。螺旋状にねじり折れた骨の位置を調整し、トイ型の半ギプスで固定してウエイトで足を引っ張る処置をしてから、ドクターは言った。「一ヶ月はこの状態でベッド生活です」。修道院の規律は厳しく、酒もタバコも許されない。「ワインは神の血。シスター、お恵みを!」と頼み込んだが、美しい顔に似ずキツイ言葉が返るだけ。見舞客の内緒の差し入れだけが唯一の楽しみとなった。


長い入院生活の間にスキーシーズンは終わった。退院前に全ギプスで固められ、松葉杖で、やっと歩くことができるようになった。しばらくして街はファッシング(復活祭)で湧いた。下の写真は前夜祭の店のスタッフ。ヘアマンの隣にギムナジウムの学生見習い、クルツが新たに加わっている。このファッシングの休日は、女性からプロポーズが公に認められるので、街のあちこちで冗談のキス攻めに会う。本気にしてはいけない。


このシーズンを最後に、ミッキーは日本へ帰った。僕はシーズンの半分を棒に振ったので、もう半年頑張ることにしたが、脚のリハビリに思いの外時間がかかり、結局ヘアマンに僕の仕事を引き継いで、二年に渡るシュルンスの生活に別れを告げることになった。


帰国後の便り
カタリーナから送られたクリスマスカード。
シュテファンの誕生を知らせてきた。


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