道草ばかりの人生  長山 伸作
 プロローグ
 生 誕 期
 思 春 期
 東芝に就職
 東芝山岳会
 夢のチロル
 ザルツブルグ−1
 ザルツブルグ−2
 チロル・シュルンス−1
 チロル・シュルンス−2
 男と女 出会いと別れと
 創 業 期
 結婚と家族
 浮き 沈み
 最愛の弟に
 中小企業考
 事業継承考
 スローライフ

写真/ダッハシュタイン
サウンドオブミュージックの舞台になったザルツカンマーグートの湖沼群を抜け、東南にある山塊を目指した。日本人にはあまり知られていない。湖の畔にある山小屋に泊まり、翌早朝に山頂往復。スニーカーで氷河を渡る危険な装備の登山だった。


 東芝に就職 1962


丸坊主の頭と爪襟の学生服姿で上京した。昭和37年3月下旬のことである。配属されたのは中央研究所の隣にある小向工場内の電子計算機技術部だった。下の写真は髪の毛の育ち具合から、一年も経過した冬の昼休みだろう。左端が私で、その隣から順々に、いつも楽しみな給料袋を届けてくれる庶務のHさん。おとなしい魅力的なFさん。大ジョッキの一気飲みで張り合い、川崎球場へちょこちょこご一緒したDekoさん。部長秘書ながら気さくで「長山君はロッカールームの一番人気」なんて喜ばせ、その気になって私に3時のおやつを差し入れさせるのが上手なNさん。男は同僚のK君。あの政界のドンとは縁戚関係にあったのかどうかは分からないが、山梨の出身である。右端は先輩のSさん。確か9700円の初任給が、退職する5年後には25000円ぐらいになっていた。
この時代は求人難で、どの企業も相当数の人材を採用していた。東芝小向工場は、主にテレビ、通信機、電子計算機部門を持ち、この年は全国から260人近い高卒者を採用した。


社員寮が不足して、私は片山荘という、民間と契約した南武線矢向駅に近いアパートに入ることになった。東山工業からは、私とI君の二人が採用され、寮も同室が割り当てられた。6畳間に二人の生活を、当時は窮屈とは思わなかったが、清潔好きの僚友に比べ、片付け下手な私は、個人の自由を束縛されているようでどことなく居心地が悪かったことを記憶している。電気メーカーにも関わらず、当時は娯楽室にテレビもなく、洗い場に洗濯機もない。トイレは当然共同利用で、風呂は無し。

寮生活は原始時代。今では想像もできないが、休みとなるとタライに洗濯板、物干し竿の三点セットで格闘が始まる。休日の恒例行事をサボると、翌週が大変。着替えのスペアが充分ではなかったので、下着を二日、三日着替えないこともあった。誠に不潔な生活だが、使用済みの靴下の臭いをかぎ「まだ臭わない」と、勝手に決めつけ、二度履きする始末。今でもOB仲間の笑い話になるが、僚友K君のパンツを無断借用した爆笑事件は、家族にまでバレている。

入社後三ヶ月は新入社員教育があり、工場内の各現場実習も体験した。テレビの製造ラインでは、若いピチピチの女性に混じってドギマギ。胸ドキドキのうぶな若者は目のヤリ所に戸惑ったものである。
ズボラな性格とは逆に、幼い頃から好きで根気の良かった絵画の心が、設計、製図にも指先の器用さに表れていたのだろう。配属先は電子計算機技術部に決まった。先輩の指導で設計図を作ることに始まり、実験室での回路誤動作のチェックや改良などの仕事も増えてきた。



コンピュータに関する書物が少なかったので、調べものは図書室のIBMを始めとする横文字文献や資料を解読することから始めなければならない時代だった。当時は主力になっていたパンチ穴のデータを読み取るテープリーダーの読み取りミスが問題になり、私の仕事になった。実験室に閉じこもる日々が続いた。理屈は単純で、ガイドに沿って走らせるテープの上にハロゲンランプを配置し、テープの下に光電素子(フォトトランジスタ)を直角に並べて、テープのパンチ穴から通る光を検出させるだけだが、当時はパーツの品質が悪かったのだろう。縁のほうの読み取りミスが時々発生した。ハロゲンを点光源と仮定して、垂直に直立していた光電素子を、点光源に向けて扇状に配列したら解決できた。東芝時代で唯一取れた私の実用新案だった。

この後、高速演算付加装置の開発プロジェクトに加わり試作品を防災センターに納入したが、トラブル多く徹夜に明け暮れる生活が続いた。当時のプロジェクトリーダーが溝口さんで、後の東芝を救ったダイナブックの開発者である。当時の東芝電算機の主流はTOSBAC3400だったが、日本最小の電算機を開発する計画が立ち上がり、私もそのプロジェクトに加わった。今、考えれば手帳型電卓程度の機能だが、当時はトランジスター、レジスター、コンデンサーなどのパーツがそれぞれ1センチ単位の大きさだったので、組み上げたときにはタンス1本分のスペースになった。これに関しては、筐体や操作パネルのデザイン、取扱説明書まで携わったので、私の後々の人生に大いに役立った。至って仕事は充実していた。



職場の雰囲気も良かったし同僚先輩にも恵まれていた。社員寮での私生活も多彩で、安いサントリーの白ラベルを囲んでそれなりに楽しんだ。麻雀もこの頃に引きずり込まれ、徹夜で興じるうちにタバコを吸い始めた。朝方ともなれば、小さな部屋が霧に包まれている状態で、不健康な体験が現在の強靱な抗体を形成したようである。アルコールには強いほうだったが、二度ほど前後不覚で友達に両肩を借りて帰宅したこともあった。パーティも盛んで、ダンスのうまいK君の指導を受けて、ブルース、ワルツ、ルンバ、マンボ、ジルバを修得し、私のデザインでチケットを作り、パーティを催しては、スキーツアーの費用を捻出したこともあった。


就職一年ほどして、山へ登るようになった。上の写真は僚友と初めて登山したときのもの。八ヶ岳を北から縦走し、権現岳付近で撮ったもの。



ゴールデンウイークを、僚友たちと丹沢水無沢で過ごした。


上京して一年後の夏に、久しぶりに故郷母校の教室に集合したクラスの勇姿面々。
真ん中の健ちゃんは音楽の才能豊かで、彼の感化でラテンギターを弾くようになった。
平成14年現在、クラス会メンバーでは生田君だけが亡くなったが、
後は全員健在のようである。右端の宮崎君だけが消息不明である。



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